自然の息づかいを笑写するブログ

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お蕎麦は江戸の食文化の代表格

 

             江戸の食文化の代表格 お蕎麦

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 江戸の食と聞いて連想するのはいったい何でしょうか。お蕎麦、お寿司、鰻……。まさに和食の王様の数々といった感じですが、江戸っ子の日常的な食べ物の代表格と言えば、何と言ってもお蕎麦ということになるのではないでしょうか。時代劇でも、お蕎麦を食べる場面はよく見かけます。

 現在では、あまりメニューにはあげられていませんが、江戸初期は蕎麦がきという形で蕎麦は食べられていました。蕎麦がきというのは、蕎麦粉を熱湯でこねて餅状にしたものです。蕎麦練りとも言いますが、そうした粉食ではなく、蕎麦切りという形で食べられるようになったのは、三代将軍徳川家光寛永期(一六二四~四四)に入ってからのことでした。

 

 「二八蕎麦」という言葉がありますが、その語源には諸説あります。蕎麦粉八割に小麦粉のつなぎが二割であるから。あるいは、かけ蕎麦一杯の価格が二×八=一六文であるからという説が有力です。今でも、二八蕎麦と書かれた看板を蕎麦屋で見ることができますが、江戸の頃もまったく同じでした。

 

 ただし、幕末になって物価が上がると、とても一六文では商売できず、二四文ぐらいに値上げしています。そのため、看板から「二八」の文字を削ったという興味深い話も伝えられています。

 

 お蕎麦は盛り蕎麦とかけ蕎麦の二つに大別できますが、先に登場したのは盛り蕎麦の方です。蕎麦は蕎麦汁を付けて食べるのが普通でしたが、江戸時代中期に入ると、ぶっかけ蕎麦と呼ばれたかけ蕎麦が登場します。立ちながらでも食べられるよう、丼に蕎麦を入れて汁をかけたのです。まさに、江戸のファストフードと言えるでしょう。

 

 江戸の蕎麦人気を推し量るバロメーターとして、蕎麦屋の数がよく挙げられます。万延元年(一八六〇)と言いますから、あの桜田門外の変が起きた年ですが、町奉行所が江戸の町の蕎麦屋の数を調査しています。その数は、なんと三七六三軒にものぼりました。

 

 しかし、この数字は店舗で営業している蕎麦屋の数です。時代劇でも出てくる屋台の数は含まれていませんので、蕎麦屋の数が五千をはるかに超えることは間違いないでしょう。

 

 製粉技術が進歩することで、三色蕎麦などの変わり蕎麦も登場します。さらに、松茸や椎茸、蒲鉾、玉子焼きなどの具をのせた「しっぽく」も登場してきます。現在の多様な蕎麦文化は、江戸の頃にその発祥が求められると言えるでしょう。

 

 江戸っ子が舌鼓を打つお蕎麦を覗いてみると、バラエティーに富む江戸の食文化が見えてくるのです。