自然の息づかいを笑写するブログ

遠くの観光地に行かなくても、身近にある自然が、あなたが来るのを、今か今かと首をながーくして待っています。自然は 喜ばせごっこ、おもてなしごっこ そして不思議な世界で溢れています。自然の笑アップを写し込んでアートにしています。

山梨県歴史4 国際的だった扇状地 帯状地のムラで渡来人と共に生きた人々 

f:id:sizenasobi:20180916104353j:plain

                    古墳 笛吹市

 

およそ二千三百年前、九州の一角で稲作が始まり、全国に普及しました。稲作は大きなうねりとなつて、日本列島中央部の険しい山々に囲まれた山梨までおよんでいます。

 

稲作はどのようなコースをたどって山梨に伝えられたのでしょうか。それは天竜川をさかのぼり、八ヶ岳南麓から入るコースと、太平洋岸を東進して富士山麓から山梨に入るコースがあったと思われます。

 

 稲作に代表される弥生式文化は盆地内で二つの道が交差しながら定着していったところに特徴があります。

 

 弥生中期初頭には、稲作技術も急速に普及し、甲府盆地の開拓が始まったと考えられます。

 扇状地のムラも木の実の採取から豊かな稲の実りをめざして、扇状地の風土にあった稲作への工夫があったはずです。しかし稲作の発達は、単純な社会形態を複雑にし、人の価値観を変え、権力構造、貧富の差を生み出していくのです。

 

            国際的だった扇状地  

 

        帯状地のムラで、渡来人と共に生きた人々 

 

 甲府盆地には、積石塚古墳がいくつか発掘されている(石和・春日居)。この古墳は、朝鮮の高句麗の墓制として知られており、形態としては甲府盆地のものと異なる古墳です。

 

 この墓制が渡来人によって日本に伝えられ、扇状地の一角に構築されたとするには、まず六世紀代の渡来人集団の存在を明らかにしなければなりません。

 

 

巨麻群の地名はどこから 

   

古代甲斐の国には多くの渡来人が来ていたことは知られていて、巨麻群という地名にそれを伺い知ることができます。

高句麗の滅亡する668年前後に多くの高句麗人が日本へ亡命しており、ここ甲斐の国へも群名に反映するほどの大勢の人が移住していたことが解ります。

これら渡来の人々が古代の盆地の文化や開発に、その知識や技術を生かして新しい文化を作り上げていったのではないでしょうか。

 

 古墳時代扇状地一帯では、古代甲斐国人と渡来人がお互いの持ち味、技術を生かして仲良く暮らしていたと思いたいのですが。