自然の息づかいを笑写するブログ

遠くの観光地に行かなくても、身近にある自然が、あなたが来るのを、今か今かと首をながーくして待っています。自然は 喜ばせごっこ、おもてなしごっこ そして不思議な世界で溢れています。自然の笑アップを写し込んでアートにしています。

山梨県の歴史 3 

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府盆地縁辺には扇状地がよく発達している。その一つ盆地東緑部では最大の京戸川扇状地があります。

 

桃畑と葡萄畑が広がる、標高四百五十メートル付近に「釈迦堂遺跡群」があり、中央道建設にともない発掘調査されたのは昭和五十五年のことです。

 

 この釈迦堂遺跡群は、五万二千平方メートルの範囲に、塚越北A地区、B地区、釈迦堂地区、三口神平地区、野呂原地区と五遺跡群からなっています。甲州市勝沼町笛吹市一宮町の町境に広がる一大遺跡群です。

 

 釈迦堂遺跡群からは、縄文時代の早期・前期・中期・後期にわたる集落の変遷をしることができる。たとえば早期の集落は、二~三軒の住居跡が一カ所に固まっているが、前期では数軒が半円形に集落を形成しはじめている。中期になると七~八軒が大きな半円形を構成した集落となっています。

 

 釈迦堂人にとって冬は食糧確保が大変だったと思われる。狩猟で得た獲物を、家族総出で料理をしたのではないのではないのでしょうか?。

 

家族の団結と、愛情で厳しい自然に立ち向かい、生き抜いていった。

 

 山梨の地形から、盆地の低地には照葉樹林扇状地や丘陵には落葉広葉樹林、山岳地帯には針葉樹林という植生の垂直分布が考えらる。

 山梨県のような山岳地帯では、水平距離は短くても、地形に高低差があるため豊かな植生に恵まれていたことであろう。とくに中期の釈迦堂はクヌギ・クリ・クルミなどの落葉広葉樹林に覆われていたと考えられる。

釈迦堂人達は、これらの木の実を採取し、高地のカヤ・イチイのある針葉樹林は格好の狩猟場であったことであろう。

比較的保存の利く木の実を採取し、家族や仲間と狩猟に精出していた「釈迦堂人」の姿が見えてきます。

 

釈迦堂遺跡の土器捨て場などから発見された土偶は1116点。

 

一つの遺跡から出土した土偶としては全国一です。女性を表現したこの土偶には不思議と完全な形をしたものは一つもないのである。頭・手・足・胴などの一部分が必ず欠損している。

 

釈迦堂人はなんのために土偶を大量に作ったのか、そこに原始宗教の姿を想像することができます。森に囲まれた釈迦堂のムラでは、秋から冬にかけて、木の実がたくさん採れることや、狩猟が成功し獲物がたくさんあることを土偶に祈ったのです。

 

 そして長かった冬が終わりの頃、ムラではこの土偶を打ち欠き、周囲に播いて大地の恵みに素朴な祈りをしていたと思われます。

 

 土偶に塗られた赤の色は太陽の光であり、炎の色であり、血の色です。太陽は再生の象徴であり、炎は獣を追い払い、豊かな食べ物をつくり、生命を与える。

 

赤く彩色された土偶は、厳しい自然の中に生きた釈迦堂人の自然に対しての尊敬と豊饒への願いが込められていた。 また、怪我や病気になったとき、その部分を土偶に置き換え、打ち欠き捨て去ることによって治癒を祈ったのであろう。

 

1116点の土偶の顔の表情の中に「釈迦堂人」の優しさと、柔軟性を知ることができます。

 

                          釈迦堂遺跡博物館 資料