自然の息づかいを笑写するブログ

遠くの観光地に行かなくても、身近にある自然が、あなたが来るのを、今か今かと首をながーくして待っています。自然は 喜ばせごっこ、おもてなしごっこ そして不思議な世界で溢れています。自然の笑アップを写し込んでアートにしています。

生命は「星の子」であり宇宙は大いなる「母」である

            フォト遊創美 ゆるキャラ

          だれもが、かつては宇宙の星だった

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宇宙カレンダーをご存じでしょうか。米国の天文学者の故カール・セーガン博士が提唱した約137億年前のビッグバンで宇宙が誕生した時期を年初めの11日午前零時に想定。137億年後に当たる「現在」を、翌年の同時刻に設定して歴史上の出来事を1年間の磨で表す。これによると、太陽系が形成されたのは、夏休み最後の831日。地球上の最初の生命誕生は、なんと10月に入ってから。原始哺乳類が地上に現れたのは、クリスマスの日です。四大文明の発祥は年越し寸前の235948秒になり、その後の営みは、すべて除夜の鐘が鳴り響く中での出来事です。

 

宇宙空間から地球を見た宇宙飛行士に、生命観を深めた人は多い。毛利衛氏も、すべてのものはつながっているという見方をするに至ったという。地球に生命が誕生して、およそ40億年。進化を繰り返しながら、一度も途切れることなく命がつながって、私たちは生きている。生物全体の進化は、「個の挑戦」から始まったと毛利氏は指摘しています。「誰も経験したことのない挑戦に成功する個は、人類という全体の能力を高め、生命が未来につながっていく可能性を体現する存在」であると(『宇宙から学ぶ』岩波新書

 

 だれもが、かつては宇宙の星だった。生命の体をつくる原子は、星々が生と死を繰り返すなかで生まれたもの。事実として全ての生命は「星の子」であり宇宙は大いなる「母」である。

 生命が生まれ、還っていく「母なる宇宙」。そこに思いを巡らせるとき、人は、いのちの尊さと絶対的な平等を体感してきたはずです。この数世紀、都市が発展して夜空に人工灯があふれ、星々の影が薄くなっていったことと、〝死を忘れた〟生命軽視の風潮が地球を覆っていることは、決して偶然の一致ではないように思われます。今こそ取り戻すべきは、「星空を見上げる文化」ではないでしょうか。

 先日、米航空宇宙局は生命が存在するかもしれない「地球のいとこ」なる惑星を発見しました。光の速さで向かっても1400年かかる距離にある、途方もない距離。大宇宙には生命を宿した星が無数にあるはずだが、いまだに、私たちが交信できた文明はありませせん。それは互いの距離が遠いことと、その星の文明に寿命があることも原因。

 

「地球人は、戦争と環境破壊で文明を終わらせてしまうのか。それとも宇宙の模範となって栄えゆくのか」。

 

見上げる星々は、そう語り掛けているように思えてなりません。

 

1件の重大事故の背後に 29件の軽微な事故が、300件の「ヒヤリ」「ハッと」する経験が

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ハインリッヒの法則」がある。

アメリカの損害保険会社に勤めていたハインリッヒは、労働災害の発生確率を分析し、「1対29対300」という数値を導き出した。

すなわち1件の重大事故の背後には、29件の軽微な事故があり、300件の「ヒヤリ」「ハッと」する経験があるというものだ.

 

怖い思いをした一瞬の出来事を見過ごさず、事故の予兆と捉える。その経験を皆で共有し、回避する知恵を出し合う中で、危険の芽は摘み取られていく。

 

江戸娯楽文化 飛鳥山は将軍吉宗によって桜の名所に

 

 

江戸娯楽文化  飛鳥山は将軍吉宗によって桜の名所に

 

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 江戸が百万都市として過密化していくにつれ、江戸っ子は身近に自然を失っていきました。そのため、自然との触れ合いを求め、江戸近郊の行楽地まで足を延ばすようになります。江戸っ子は芝居や寄席見物だけでなく、自然景観を味わう物見遊山という形でも余暇を楽しんでいました。

 

 春の行楽シーズンといえば、今も江戸時代も桜の花見を楽しむのがメーンでしょう。江戸には桜の名所が数多くありましたが、そのシンボルは、墨堤と呼ばれた隅田川の堤や王子の飛鳥山でした。

 

 花見の時期になると、これらの桜の名所に花見客が大挙押し寄せましたが、江戸時代のはじめから、そうだったわけではありません。八代将軍徳川吉宗の時代を境に、隅田川飛鳥山に花見客が押し寄せるようになるのです。

 

 あまり知られてはいませんが、吉宗は桜の植樹にたいへん熱心な将軍でした。身近に自然を失った江戸っ子のために、春に桜を楽しめる空間を江戸近郊にいくつも造っていったのです。では、飛鳥山が桜の名所となっていった様子をご紹介していきましょう。

 

 享保五(一七二〇)年九月、一万六五〇〇坪もの広さがあった飛鳥山に、桜の苗木二七〇本を植樹させています。江戸城内には、将軍用に造られた広大な吹上庭園がありましたが、その庭園で栽培していた苗木でした。翌六(一七二一)年九月には、さらに千本植樹させます。

 

 植樹された桜が根付き開花するようになった同十八(一七三三)年二月には、花見客に飲食を提供する茶屋の設置を命じます。花見をしながら飲食を楽しめる空間も作り出そうとしたわけです。花見客の立場に立った対応と言えますが、花見客の誘致にもつながったはずです。

 

 元文二(一七三七)年三月十一日、吉宗は家臣たちを連れ、自分が花見の名所として造り上げた飛鳥山で酒宴を催します。今で言うトップセールスでした。桜の名所・飛鳥山の宣伝に一役買ったわけです。

 

 将軍が飛鳥山で花見を楽しんだとなれば、江戸っ子も飛鳥山に出かけたくなるでしょう。それが吉宗の狙いでした。

 

 その後も、吉宗は桜の増植・補植などを通じて、桜の名所としての環境整備に力を入れます。吉宗の強力なバックアップにより、飛鳥山は桜の名所としての地位を確立し、江戸っ子の行楽地として発展していったのです。

 

今も春になると、飛鳥山は桜を楽しむ都民で賑わいます。

西郷隆盛には、様々な誤解がある 内向的で、きちょうめんな人柄

            虫食いアート  

       歴史がおもしろい

 

    西郷隆盛には、様々な誤解が 内向的で、きちょうめんな人柄

 

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今年は、日本を近代国家へと導いた西郷隆盛の没後140年です。明治維新150年の明年は、NHK大河ドラマ、「西郷どん」が放送され、間もなく終わろうとしています。

 

西郷隆盛には、様々な誤解が付きまとっており、それを解くことが人物を知り得る鍵になります。

 

まず外見に関してですが、皆さんが写真だと思っている教科書等に乗っているイメージは、弟の従道や、いとこの大山巌をモデルに描いた肖像画です。

 

坂本龍馬などと違い、西郷の写真は見つかっておらず、正確なイメージをつかむことができません。

 

ただ、文献等から5尺9寸 約180センチ 20貫 約109キロの大きな体格で、眉が太く目が大きかった事は間違いありません。

 

豪快な性格と思われがちですが、どちらかと言うと内向的で、きちょうめんな人柄でした。

 

剣術に関しても、10代の時に筋を切ってしまい、刀を握れなくなったようです。そろばんが得意で今で言う理数系のタイプだったと見ることができます。

 

ただ同時にリーダーとしての魅力も備えていました。私利私欲を排し、迷いがなく勇敢だった。

 

だからこそ、多くの人々に親しまれたのでしょう。

 

ちなみに、西郷どんのどんは、上から目線の言葉ですが、実際は「太目」「太身」「太肝」、というあだ名で親しまれていたようです

 

 

西郷隆盛はお酒をほとんどたしなまず、刀剣の収集にも無縁だった。数少ない娯楽の一つが「狩り」でした。特に、兎狩りを好み狩猟用の犬をたくさん飼っていました。

 

東京、上野の銅像で西郷の連れている犬は「ツン」といいます。西郷隆盛が体操かわいがっていたようです。

 

西郷隆盛の名言を集めた「南洲翁遺訓」、1868年にこの遺訓を編さんしたのは、薩摩の人間ではなく、敵方の庄内藩の藩主と藩士達でした。

 

1868年、西郷率いる官軍が、庄内藩主の居城に入城しました。当時勝将軍が暴行などに及ぶ事は珍しくありませんでしたが、そうした事は皆無でした。

 

武士道に敬意を払い、武士道に生き抜いた西郷らしい現実的でかつ寛大な処置でした。

西郷隆盛が目指したのは、四民平等の世界

 

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雲のアート 西郷が目指したもの

 

 西郷隆盛が目指したのは、四民平等の世界です。

そのために「明治維新」という革命を断行し、約300の藩と約200万人の武士に自己犠牲を強い、封建的な身分社会を葬り去ったのです。この結果、天皇中心の中央集権国家となり、近代社会へと移行できたわけですから、その中心人物である西郷は「明治維新の最大の功労者」です。

 

「命もいらず、名もいらず」

 西郷隆盛は、光の当て方で放つ色が違うプリズムのような、巨大な人物です。

 また、彼に接した人の姿を映し出す「鏡のような人物」ともいわれます。

 明治維新の最大の功労者でありながら、最後は西南戦争で自決する悲劇の主人公です。権力の系譜ではなく、弱者の味方です。圧倒的に大衆に人気があります。

 彼の人気は、「西郷どん」という鹿児島特有の呼び名にも表れています。庶民の日常会話から「西郷」が「せご」、「殿」だった敬称が親しみを込めて「どん」となり、「西郷殿」が「せごどん」となったのです。

 歴史上の人物で庶民に愛された人物はいるでしょうが、「西郷どん」とまで敬愛を込めた愛称で呼ばれる偉人を私は知りません。

 民俗学者であり、「釈迢空」と号した歌人折口信夫は、ある時、門下の岡野弘彦さんに「西郷はなぜ偉いか」と問いました。岡野さんは答えられませんでしたが、折口は「三界に身のよるべなき月照と 心中をとげし 西郷ぞよき」と(藝能学会誌「年刊藝能」第24号)。月照は、勤王派の僧です。西郷は、月照と共に死ぬ決意をして、冬の海に飛び込みました。折口は、西郷の偉大さは「友のために自分の命を捨てられること」と言ったわけです。

 『南洲翁遺訓』には、西郷隆盛山岡鉄舟について語ったとされる言葉があります。山岡は、江戸城無血開城を決めた勝海舟と西郷の会談に先立ち、西郷と単身、面会しました。

 「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。此の始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」

 この言葉は西郷の真情であると私は思います。友を信じ抜くからこそ、命も名もいらず、官位も金もいらない生き方ができるのです。

 

郷中教育で育まれた生き方

 薩摩藩には、「郷中教育」と呼ばれる教育制度がありました。青少年を「稚児」と「二才」に分け、勉学・武芸などを通して、一人一人の能力を最大限に発揮させました。

 芋をおけの中に入れて棒でかき回すことを「芋こじ」と言いますが、芋と芋は互いにぶつかり合い、汚れはきれいに落ちます。同じように、郷中教育は、子どもたちが互いに切磋琢磨する集団教育であり、人材育成です。

 当時は封建社会ですから、「郷中」という地域の仲間は運命共同体。西郷と大久保利通は、同じ地域の出身です。

 郷中教育はもちろん、家庭教育の基礎となったのが『日新公いろは歌』です。

 「日新公」と敬われた島津忠良が、人の道を分かりやすく教えるために歌の形にしたもので、薩摩藩士の精神性の根幹であり、誰もがそらんじていました。

 「心こそ軍する身の命なれ そろゆれば生き揃はねば死す」――心一つに臨めば、必ず勝利します。西郷ら薩摩藩は新しい時代を築くため、志を一つにして挑みました。

 「楼の上もはにふの小屋も住む人の 心にこそは高き卑しき」――どんな立派な家に住む人も貧しい小屋に住む人も、心が清く正しければ高貴であり、そうでなければ卑しい。人の真価は、心の在り方で決まります。地位や立場ではありません。

 「つらしとて恨みかへすな我れ人に 報ひ報ひてはてしなき世ぞ」――相手から、どんなにつらいことをされても、相手に恨みを返してはいけない。明治維新という革命を遂行するに当たり、西郷は抵抗勢力には心を鬼にして臨みました。しかし、大勢が決すると、心を仏にして寛大に対処しました。

 こうした人生の知恵を、西郷は仲間と一緒に学び、激動の時代を生き抜いたのです。

 

「無力感」を打ち破るために

 明治維新から150年を迎え、私は西郷が「今の日本はこれでいいのか」と問い掛けているような気がしてなりません。

 新しい時代を切り開くためには、まず、現状に対する強烈な危機意識を持たなければなりません。「今の世の中は、これでいいのか」。これが変革のスタートです。

 危機意識を持った時の行動基準は、「やれるか、やれないか」ではありません。「やるべきか、やらざるべきか」です。今の人は、行動する前に結果を考えてしまう傾向が強いので、「できそうならやる」「できそうもないなら諦める」となりがちですが、幕末明治の人は「やるべきか、やらざるべきか」。現状に立ち向かうパワーが全く異なります。

 現代の大きな課題は、「無力感」でしょう。「自分一人が行動しても、何も変わらない」という空気が、特に若者の間にまん延しています。これは、目標となる人物、道しるべとなる人物を示せない大人たちにも原因があります。

 人間教育が大切です。子ども時代から訓練し、無力感を打ち破らなければ、輝く未来はありません。西郷の生き方も、彼が大人になってからではなく、郷中教育という人材育成の中で育まれました。

 もう一つ加えると、逆境が人を強くします。西郷の人格形成において、離島(奄美大島、徳之島、沖永良部島)に流された5年間の体験は大きかった。彼はこの時期、人間という存在を、とことん突き詰めて考えたのでしょう。

 今、「モデルとなる人物」がいない時代といわれます。だからこそ、「西郷どん」をぶつけてみたいのです。

 

話 はらぐち・いずみ 1947年、鹿児島県生まれ。鹿児島大学法文学部教授を経て、同大学名誉教授、志學館大学教授。専門は、日本近世・近代史、薩摩藩の歴史。NHK大河ドラマ翔ぶが如く」「琉球の風」「篤姫」「西郷どん」の時代考証を担当。著書に『西郷どんとよばれた男』『西郷隆盛はどう語られてきたか』など多数。